夢の中で出会った神代文字の力

印象深い夢を見ました。
夢の中で、これまでの人生が次々と映像となり流れていきます。

懐かしい思い出も、苦い記憶も、まるで走馬灯のように私の目の前を駆け抜けていき、その流れが現在の私へと戻ってきたとき、記憶たちは一本の赤い帯となり、映写機のフィルムのようにくるくると巻き取られていきました。

やがて、その帯に映し出されていた映像が神代文字に変わり、最後には灰となって消えるのをみたとき、

「みんな生きたいように、あるいはそういう生き方しかできない」

という言葉が胸の中に拡がり、

「それならしゃーない(仕方ない)な」

と、過去の愚かな自分も、理解に苦しんだ他人の行動も、全てが自然と許せるような気持ちになったのです。

神代文字には、不思議な力を感じます。

ただの文字ではなく、そこに「命」が宿っているような。

ときどき、その文字から声や音が響いてくるように感じたり、文字そのものが体の中に吸い込まれるような感覚を覚えることもあります。

それは、「氣」という言葉で表現できるかもしれませんが、単なるエネルギーの概念を超えた何かがあります。

WADATSUMIの道具には、すべて神代文字が刻まれています。

それぞれの道具には異なる用途があり、初めて手に取る人は

「どれを選べばいいのか」と迷うことが多いようです。

 

私がオススメの選択方法は、
「なんとなく感じるものを選んでください」です。

頭で考えるのではなく、心に響くものを大切にしてほしいと思うのです。

それは理屈ではなく、自分自身が持つ感覚に正直であること。

選び取る行為そのものが、既にその人の「道」を表しているのだと思います。

 

道具とは、

それ自体が「道を具えるえている」からこそ道具と呼ばれるそうです。

 

道具が真の力を見せるのは、それを使う人の「道」と交わったとき。

その交わりが起きるとき、道具が本来の輝きを放ち始めるのです。


とはいえ、最初から「道」が備わっている人などいないでしょう。

道具というものは、最初はどう使えばいいのか分からないものです。

だから、よくわからなけれど毎日触れて使い続ける。

使い続けているうちに、

道具の持つ「道」と、自分の中の「道」が少しずつ交わり始めます。

その交わりが深まったとき、道具は輝きを放ち、力を発揮してくれるのです。

 

こうして生まれる交わりこそ、「あわひ」の世界なのだと私は思います。

異なるもの同士が出会い、交わり、新しい価値が生まれる瞬間。

 

それは道具と人との関係だけでなく、日々の暮らしの中にも、人生そのものの中にも広がっているものです。

夢の中で神代文字が記憶を昇華していったあの感覚も、WADATSUMIの道具を手に取るときの静かな確信も、すべて「あわひ」としてつながっている気がします。

「あわひ」とは、ただ交わるだけではありません。

その交わりが新しい力や価値を生むとき、私たちはそれを実感します。

夢が示してくれたのは、そうした「あわひ」の豊かさだったのかもしれません。